沈黙の翼
記録が語る日航123便墜落事故の真相
第1章 100人の機長が綴るタイム・ゼロへの航跡 その1
日航123便ジャンボ機墜落事故から36年経ちました。正式報告書の内容を疑問視する人たちの原因追及が膠着する中、竺川が航空史研究家の視点で状況を再考察し、未公開情報から得た驚愕の真実を公表します。
事故後36年を経て私の研究結果を公表するに至った動機は、4年前、私が新聞社に応募した短編小説に最優秀賞を受賞したことがきっかけになりました。小説は口笛が聞こえる日常の景色を描きましたが、その曲を歌った歌手が事故の犠牲になりました。
私は航空産業に従事した技術者の一人として事故の原因に納得できない気持ちを引きずったまま、30数年間を過ごしてきましたが、新聞小説の受賞は迷宮に入ったこの状態を、このまま放っておけないと私に行動することを促されました。亡くなった歌手から背中を押された気持ちになりました。
現役を退いた後の私の趣味は航空史の研究です。50年間に亘って収集したデータや航空時刻表などが事故の再検証にキチンと役目を果たしてくれました。
ここに記す内容に憶測はなく、客観的データは正式報告書と異なる事故の真相を浮き彫りにしました。
「真実を見るには勇気がいる」というダ―ウインの言葉を思い浮かべながら、勇気を奮って公表を決心しました。
10数分の内容を7~8本のシリーズで御紹介する予定です。英語の字幕を付け、より多くの方に視聴していただく事にしました。
航空史研究家の竺川航大(じくせん・たかひろ)です。
ご紹介するこの動画は、1985年8月12日に発生した、日航123便羽田発大阪行きジャンボジェット旅客機が群馬県上野村御巣鷹(おすたか)の山に墜落した事故につきまして、真相解明の研究結果を報告するものです。
事故後36年を経て私の研究結果を公表することになった理由は、4年前、応募した短編新聞小説に賞を頂いたことがきっかけになりました。小説は歌が聞こえる日常の景色を描きましたが、その曲を歌った歌手が事故の犠牲になりました。
私は技術者の一人として公表された事故の原因に納得できない気持ちを引きずったまま、30数年間を過ごしてきましたが、新聞小説の受賞はこのままではいけないと私に行動を促しました。
亡くなった歌手から背中を押されたような気持ちになりました。
日本の航空史を正しく記録して後進に伝達すべく、事実を見るには勇気がいることを自覚した上で報告する事を決心し、内容を3章に分割してユーチューブに公表することにしました。
研究結果を確かなものにするため、データは全て客観的なもののみを用いることにいたします。
事故調査報告書は事故の2年後、1987年6月、運輸省航空事故調査委員会から公表されました。公表直後から報告書の結論には合理性を欠くという多くの声があがりました。
私にも報告内容に対する基本的な疑問がありました。
この数年、私が保有する関連データを整理し、研究を進めておりましたところ、事故に至る経過を矛盾なく合理的に説明でき、公表された報告書の基本的な疑問点を払拭できるという確信を得ました。
事故原因とその後のプロセスにつきまして、納得のいく結論に達しましたので、2020年7月、御巣鷹の山に慰霊登山し、犠牲者に研究結果を報告いたしました。
なお、ここに掲載した画像は御巣鷹の山々を立体的に表わした自作の25センチ四方の模型ですが、現物現場主義を基本とする故障解析の折に私が取る常套手段です。今回も多くのアイデアを提供してくれました。
ここに「記録が語る日航123便墜落事故の真相」の第一章「100人の機長が綴るタイムゼロへの航跡」"を3編に分けて報告いたします。この動画は第一章のその1になります。
その2は結論に関わる証拠類を説明します。
その3は破壊のプロセスを説明します。
先ず、事故調査報告書の結論とそれに対する私の主要な疑問点を整理しておきます。
墜落した機体はかつて尻もち事故を起こしましたが、ボーイングの不適切な修理は、その後の運航中に修理部に疲労亀裂を引き起こし、遂には圧力隔壁が2㎡ほどの大きさに吹き破れたというものです。
穴から噴き出した客室内の空気が機体後部にある補助動力装置や油圧パイプ、垂直尾翼を破壊し、操縦不能になったJA8119は迷走飛行の末に御巣鷹の山に墜落したとされます。
しかし、隔壁を破壊する程の客室空気の流出を感じなかった、大きな気圧変動を感じなかった、という生還者の証言がありました。
つまり、急減圧はなく、人々は意識を維持できたので報告書に基づけば開いた穴は直ぐに塞がったのか。
そもそも流出する空気エネルギーだけで補助動力装置や垂直尾翼等を破壊するという調査報告書のシナリオには無理があります。
隔壁の破壊はなかったのではないかという基本的な疑問がありましたから、他の原因で機体後部が破壊したと考えるのが当然の思考の方向です。
それでは一体真因は何かと問われると、良識ある技術者側にも即答できないという不思議な事故で、報告書が公表された直後から最近まで、原因諸説が割拠する30数年間であったと思います。
私は航空事故調査報告書とは異なる視点から、研究結果をドキュメンタリーに纏めました。
この第一章は墜落機の就航から事故に至る11年6ヵ月間を対象に、事故に関わる現象を検証します。当然のことながら原因はこの期間内にあります。
なお、サブタイトルの「100人の機長」はJAL B747ジャンボジェット旅客機の機長のことで,
テクニカルデータを直接私に提供して頂いた100人以上の機長を指します。
「タイムゼロ」は相模湾上空で異常が発生した時刻をさします。
「100人の機長が綴るタイムゼロへの航跡」に続き、順次第二章「迷走孤独の32分間」、第三章「虚空の調査報告書」をYOUTUBEに公表する予定です。
報告の中で国内線用B747SRジャンボジェット旅客機をB747SR又はSR機と呼び、墜落機は登録番号を用いてJA8119と呼びます。
国際線用の機体はB747LR、又はLR機と呼びます。
航空需要の増加に伴って、機体の大型化が検討されLR機をベースにして誕生したのがSR機です。
機体の外観をご覧ください。SR機は二階にあるLR機のラウンジを客席にしたため、窓の数が片側3個から9個になっています。その他は殆ど外観上の違いはありません。
従来型機の二倍以上の乗客ですから、空域が狭く増便が難しい日本では輸送効率は格段に向上しました。
注目点はSR機がLR機をベースに開発されたので、二つの機体は同じ構造・強度・耐久性を備えています。
この事実は検討を行う上で最も重要な要素です。
先ず最初に、私の研究の結論である墜落事故の原因をお知らせしておきます。
事故原因は頻繁な運航の繰返しによる垂直尾翼付け根部付近における、圧力隔壁外周部の金属疲労の蓄積から破壊に至ったものと結論付けました。
詳細は順次報告しますが、この付近は尻もち事故の修理対象外の部位です。
空気漏れは垂直尾翼損壊時に生じた隙間から瞬間的に発生したもので、断熱材の一部が吸い出されました。
フェイルセーフの技術が完成したとされる現代において、1950年代の古典的故障の再来といえます。
当然、現代における事故の再来には大きな盲点があり、重大な判断ミスと適切な時期に検査要領が改訂されなかったというヒューマンエラーも拭えません。
起こるべくして起こった事故と私は捉えています。
私は事故調査報告書の結論であるボーイングの修理ミスによる圧力隔壁の吹き破れ説を支持しておりません。
敢えて云えば、圧力隔壁の全部を修理しなかったことがボーイングのミスであって、圧力隔壁の上半分と機体との接続部には尻もち事故の歪が溜まったままであったという事実を重要視しています
事故調査報告書の結論では圧力隔壁の破壊後に人が生存することは不可能です。生存者の証言と報告書の内容には喰い違いがあります。
SR機にはLR機に較べ、ここに示す様にSR機の疲労を助長する運航実態と客室の与圧環境から絶対的にSR機不利となる要因がありました。
早晩SR機に故障が発生するということが想像できました。
順番に解説します。前提はSR機とLR機は構造が共通で、従って、機体強度と耐久性は同等ということです。
一番目はSR機の運航頻度と飛行高度です。
JALの場合、1985年8月の時点において、SR機はLR機の約3倍の頻度で運用され、長距離国内線は国際線と同じ高高度を飛行していました。
私が収集している時刻表からダイヤグラムを作成し算出しました。
その2で詳しく解説します。
二番目はSR機の客室与圧です。
SR機の室内与圧は常に8.9 psiというLR機に合わせ、高い圧力にセットされていました。
低空を飛行する短距離路線において、JA8119の場合は与圧高度を地表近くの約200Mに設定したため、胴体はLR機と同じ膨張収縮の振幅巾で運航されました。第一章その2で詳しく報告いたします。
LR機の3倍の繰返し飛行を行いながら、上空ではLR機と同等の圧力負荷を加えていました。
当然のことながら、運航頻度と圧力負荷の実態はSR機にLR機より早いペースで金属疲労が進展するという懸念が生じます。
客室与圧と胴体の膨張のイメージはこの図の通りです。
SR機には本来6.9 psiの低い与圧をセットされるところ、LR機と同じ8.9 psiに常にセットされていました。報告書はその理由を述べておりません。
繰返し疲労がLR機より蓄積するのは明らかです。圧力隔壁を堺にして与圧空間と非与圧空間に分けられるので、圧力隔壁の外周に当るY―コード付近で最も疲労が進むと考えられます。
3番目は金属疲労に対する対応の不備です。
JA8119の姉妹機のJA8118は事故の2年前に胴体壁に疲労亀裂が発見されましたが、これが運航中のSR機の検査規定に反映されることはありませんでした。
1995年に公表されたJAL関係者は論文の中でこの事実を慙愧に堪えないことと記述しています。
SR機は大型機の中で際立って離着陸回数が多い機体であることに注目されるべきであったと思います。
4番目は独特の脚構造です。
脚構造は以外に思われる項目ですが、16本のタイヤを装着する主輪群は方向を固定され直進走行性を指向するため、地上走行中の機首方向の変更には大きな力を必要とします。
機体別の車輪配置をご覧ください。主輪タイヤは広い範囲に散らばっているため、他の機体に較べ、機首方向を変えるとき、主輪に大きな横滑りを強いることになります。
但し、この力は唯一方向舵が生じる空力から得るため、方向舵の躁舵の度に圧力隔壁上部に捩じり歪を生じます。
B747は直進走行を指向する当時最大の飛行機でした。他の旅客機との比較は第一章その3で報告いたします。
何故JA8119に事故は発生したのか
B747SR機の中でJA8119に故障が発生する理由がありました。
SR機の中でJA8119に発生した理由は7年前に尻もち事故をおこした経歴が大いに関係しています。
修理は変形した圧力隔壁の下半分を取り換えるもので、上半分には当時の歪を封じ込めたまま、その後7年間運航を継続しました。結果的には残留歪は時限爆弾の様なものであったのです。
圧力隔壁上部においては垂直尾翼から繰返し捩じり応力を受け、遂には疲労限界に達して垂直尾翼が破壊したと考えられます。私は方向舵の操舵回数から推定して、繰り返し回数が100万回近くに達していたと概算しています。第一章その3で考察します。
JA123便の直前に運航されたJA366 便福岡発羽田行きの後部座席に乗り合わせた男性は天井から聞こえるミシミシという不気味な音を聞いた事を手記に記しています。この時、明らかに兆候があったのです。
JA8119には歪が残留していたという他のSR機とは決定的に異なる経歴がありました。
先に述べましたが、ボーイングによる修理が圧力隔壁の全面に亘って実施され、尻もち事故の残留歪が除去されていたら事故に至らなかったと私は確信しています。
全ての機械装置が備える安全マージンをA8119は尻もち事故で使い切ってしまったとも言えると思います。
第一章その1を纏めます。
■SR機とLR機は構造が同じであり、従って強度と耐久性も同等です。
所が、SR機はLR機の約3倍の頻度で離着陸を繰り返し、且つ短距離路線を除き、国際線と同じ高高度を運航していました。
■SR機はLR機と同じ機内与圧にセットしたため、上空での胴体の膨張はLR機と同じレベルに膨らみました。更に低空を飛ぶJA8119は機内気圧を地表近くの気圧にセットしたため、高空を飛ばないのに胴体は目いっぱい膨張する状態でした。
つまり国内線はどの路線も胴体はパンパンに膨らんだ状態で飛んでいたことになります。
JALはどの様な経緯を経てこんな厳しい条件を国内線に適用したのでしょうか。
■検査規格について、事故の2年前に姉妹機に当たるJA8118の胴体に40センチ近い亀裂が発見されましたが、この時、重要構造内部点検を行うよう規定を変更しなかったのは明からなボーイングのミスであったと思います。
詳細は第三章「虚空の調査報告書」で詳しく説明いたします。
そして次にB747の脚構造の特徴です。
16本の主輪は全部前向きに転がるよう固定されています。
一輪当たり10数トンの2足のローラースケートを足を地面に付けたまま方向転換する力は相当なものです。
飛行機は滑走中は絶対的に滑走路内を走らねばなりませんが、横風に対しては左右の機首方向の調整が必要です。この力は全て方向舵から生じる空力によります。力が作用するとき、圧力隔壁上部に捩じりモーメントが発生するのは明らかで、B747はこの力が最大の飛行機で、主輪16本のタイヤ摩耗のバラツキも最大の飛行機した。
第一章その3で詳しく解説します。
私がデータを精査した限り、ヒューマンエラーが存在し、起こるべくして起こった必然性の強い事故という結論です。
調査報告書の不合理点を指摘しながら、次のその2で個別に報告します。
SR機の運航は非常に厳しい条件下で行われておりましたが、世界に前例のない超大型機の運航形態であるという自覚が運航側にあったのかどうか、就航当初は慎重にフォローされたSR機は、5年10年と問題なく経過するうちに普通の景色になっていったのかも知れません。
この事故の場合、本来発生が阻止されるべき古典的金属疲労の発生が原因になりますが、過酷な運航条件を設定したことが真の原因であると考えられます。
修理が隔壁の全周に行われていたら、さもなくば検査要領が改訂されていれば、JA8119は他のSR機同様に悠々役目を全うしてリタイアして行ったと思います。
次の第一章その2では客観的証拠をあげて説明いたします。
第一章 その1のご視聴ありがとうございました。
航空史研究家の竺川航大がお伝えしました。
それでは次回その2まで失礼いたします。